p.178 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) |
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たまうの心なり。「即是其行」と言うは、すなわち選択本願これなり。「必得往生」と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」と言えり、『釈』(易行品)には「必定」と云えり。「即」の言は、願力を聞くに由って、報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり。「必」の言は、審[あきらかなり]なり、然なり、分極なり、金剛心成就の貌なり。
『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、根に随う。終に実相に帰せしめんとなり。真の無生を得ん者には、たれかよくこれを与えんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって、ここに仏、願力を事として衆生を度したまう。乃至 如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて、父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや。乃至 それ大なるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆえに、我が釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまう。方は穢・浄両殊なりといえども、利益斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるに、かの西方は殊妙にして、その国土は比びがたし。また厳るに百宝の蓮をもってす。九品に敷いてもって人を収むること、それ仏の名号なり、と。