p.223 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 目次 // 前頁 / 次頁

きことなくして常に我が身を照らしたまう、と。已上
しかれば、もしは行・もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。
問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに論主「一心」と言うや。答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。私に三心の字訓をキ うに、三はすなわち一なるべし。その意何んとなれば、「至心」と言うは、「至」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり。「心」はすなわちこれ種なり、実なり。「信楽」と言うは、「信」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。「楽」はすなわちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。「欲生」と言うは、「欲」はすなわちこれ