p.232 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 目次 // 前頁 / 次頁

法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなわちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなわち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなわちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなわち驕慢および放逸を離る。もし驕慢および放逸を離るれば、すなわちよく一切衆を兼利せん。もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけん、となり。略抄
『論註』に曰わく、「如実修行相応」と名づく、このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。已上
また言わく、経の始めに「如是」と称することは、心を彰して能入とす。已上
次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施した