p.360 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本)
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儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。
三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。
『末法燈明記』最澄製作 を披閲するに曰わく それ一如に範衛してもって化を流す者は法王、四海に光宅してもって風を垂るる者は仁王なり。しかればすなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、真諦・俗諦、たがいに因って教を弘む。このゆえに玄籍宇の内に盈ち、嘉猶天下に溢てり。ここに愚僧等、率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ、未だ寧処に遑あらず。しかるに法に三時あり、人また三品なり。化制の旨、時に依りて興替す。毀讃の文、人に逐って取捨す。それ三古の運、減衰同じからず、後五の機、慧悟また異なり。あに一途に拠って済わんや、一理について整さんや。かるがゆえに正・像・末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。中において三あり。初めには正像末を決す、次に持破僧の事を定む、後に教を挙げて比例す。
初めに正像末を決するに、諸説を出だすこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基(慈恩大師・弥勒上生経疏)に、『賢劫経』を引きて言わく、「仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年ならん、この千五百年の後、釈迦の法滅尽せん」と。末法を言わず。余の所説に准うるに、尼、八敬に順わずして懈怠なるがゆえに、法更