後に亦應に佛有しますべからず。何を以ての故に、覺他の義无きが故に、復何の義に依てか三世の佛有ますと説かんや、覺他の義に依るが故に佛佛皆一切衆生を度したまふと説くなり。三には後佛能く度したまふは、猶是前佛の能なり、何を以ての故に、前佛に由て後佛有るが故に、譬へば帝王の冑相紹襲することを得るは後王即ち是前王の能なるが如きが故に。四には佛力能く衆生を度したまふと雖も、要ず須く因縁有るべし。若し衆生前佛と因縁无くば、復後佛を湏つべし。是の如く无縁の衆生の動もすれば百千万佛を逕るも聞かず見ざるは、佛力劣なるには非ざるなり。譬へば日月の四天下に周くして諸の闇冥を破すれども而も盲者は見ず、日の明ならざるには非ざるなり、雷聲耳に震へども而も聾者は聞かず、聲の勵しからざるには非ざるが如し。諸の縁理を覺するを之を号けて佛と曰ふ、若し情強ひて縁に違せば正覺に非ざるなり。是の故に衆生无量なれば佛も亦无量なり、佛は有縁・无縁を問ふこと莫く何ぞ盡く一切衆生を度したまはざるやと微するは、理言に非ざるなり。五には衆生若し盡きなば世間即ち有邊に墮せ、是の義を以ての故に則ち无量の佛有しまして一切衆生を度したまふ。 問て曰く。若し衆生盡くべからざれば世間復无邊に墮せん、无邊の故に佛則ち實に一切衆生を度したまふこと能はざるや。答て曰く。世間は有邊に非ず无邊に非ず、亦四句を絶す。佛は衆生をして此の四句を離れしめたまふ、之を名けて度と爲す、其の實は度に非ず不度に非ず、盡に非ず不盡に非ず、譬へば夢に大海を渡るに濤波の諸難に値ひ、其の人畏怖して叫ぶ聲外に徹る、人有ありて喚び覺すに坦然として憂无きが如し、但渡を爲すは夢なり、渡を爲さざるは河なり。 問て曰く。渡と不渡と皆邊見に墮すと言はば、何を以てか但一切衆生を度するを大乘廣智と爲すと説きて、衆生を渡せざるを大乘廣智と爲すと説かざるや。答て曰く。衆生は苦を厭い樂を求め縛を畏れ解を求めずといふこと莫し。渡を聞けば則ち歸向し、不渡を聞けば渡せざる所以を知らずして、便ち佛は大慈悲に非ずと謂ひて、則ち歸向せず。歸向せざるが故に長く久夢に寢て息むべきに由无し。是の人の爲の故に多く渡を説きて不渡を説かず。復次に『无行經』(諸法無行經卷下)に亦言く。「佛は佛道を得たまはず、亦衆生を度したまはざるも、凡夫強ひて佛と作り衆生を度したまふと分別す」と。衆生を度すと言ふは是對治悉檀なり。衆生を度せずと言ふは是第一義悉檀なり。二言各々所以有りて相違背せず。 問て曰く。如し夢息むことを得ば、豈是度にあらずや。