願はくは佛我を哀愍して其の所得の法の如く、定惠力もて莊嚴し、此を以て解脱せしめよと。是の如く念じ已りて、聲を擧げて佛を念じて、救護を請へ。『止觀』(卷二上)に云ふが如し。「人の重きものを引くに自力にて前まずば、傍の救助を假りて則ち輕く擧ぐるこをを蒙るが如し。行人も亦爾なり。心弱くして障を排ふこと能はずば、名を稱して護を請ふに、惡縁も壞すること能はず」と。已上 若し惑、心を覆ひて通別の對治を修せんと欲せしめずば、須く其の意を知りて常に心の師と爲し心を師とせざるべし。 問。若し破戒の者は、三昧成ぜずんば、云何が『觀佛經』(卷九)に「此の觀佛三昧は、是一切衆生の犯罪の者の藥なり。破戒の者の護なり」と云へるや。答。破戒の已りて後に、前の罪を滅せんが爲に、一心に佛を念ず、此が爲に藥と名く。若し常に毀犯せば三昧成じ難し。
[五、助念方法 懺悔衆罪]
第五に懺悔衆罪とは。設し煩惱の爲に其の心を迷亂せられ、禁戒を毀らば、應に日を過さずして懺悔を營修すべし。『大經』の十九(南本涅槃經卷一七)に云ふが如し。「若し罪を覆へば、罪則ち增長す。發露し懺悔すれば罪即ち消滅す」と。又『大論』に云く。「身口意の惡を悔いずして佛を見たてまつらんと欲せば是の處有ること無けん」と。已上 懺法一に非ず、樂に隨ひて之を修せよ。或は五躰を地に投じ遍身に汗を流して彌陀佛に歸命し、眉間の白毫を念じ、發露し涕泣して應に此の念を作すべし。過去の空王佛の、眉間の白毫相を、彌陀尊禮敬して罪を滅して今佛を得たまへり。我今彌陀佛を禮することも亦當に復是の如くなるべし。須く罪根に隨ひて佛の光を哀請すべし。謂く檀光を放ちて慳弊の罪を滅したまへ。戒の光を放ちて毀禁の罪を滅したまへ。忍辱の光を放ちて瞋恚の罪を滅したまへ。精進の光を放ちて懈怠の罪を滅したまへ。禪定の光を放ちて散亂の罪を滅したまへ。智慧の光を放ちて愚惑の罪を滅したまへ。是の如く若しは一日若しは七日に至れば、百千劫の煩惱の重障を除く。或は須臾の間も坐禪入定して、佛の白毫を念じ心をして了了ならしめ、謬亂の想无く、分明に正しく住して意に注けて息まざれば、九十六億那由他等の劫の生死の罪を除却す。