p.106 仏説観無量寿経 目次 // 前頁 / 次頁

づく。この観を作すをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもってのゆえに、また仏心を見る。仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す。この観を作せば、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて、無生忍を得。このゆえに智者、応当に心を繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。無量寿仏を観ぜば、一つの相好より入れ。但、眉間の白毫を観じて、極めて明了ならしめよ。眉間の白毫を見れば、八万四千の相好、自然に当に現ずべし。無量寿仏を見たてまつるは、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつるなり。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆえに、諸仏現前に授記す。これを「遍観一切色身想」とす、「第九の観」と名づく。この観を作すをば名づけて正観とす。もし他観するをば名づけて邪観とす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「無量寿仏を見たてまつること了了分明なること已りて、次にまた当に観世音菩薩を観ずべし。この菩薩身の長八十万億那由他由旬なり。身紫金色なり。