p.322 顕浄土真仏土文類五(教行信証・真仏土) 目次 // 前頁 / 次頁

(述文賛)憬興師の云わく、無量光仏算数にあらざるがゆえに、無辺光仏縁として照らさざることなきがゆえに、無碍光仏人法としてよく障うることあることなきがゆえに、無対光仏諸菩薩の及ぶところにあらざるがゆえに、光炎王仏光明自在にして更に上とすることなきがゆえに、清浄光仏無貪の善根よりして現ずるがゆえに、また衆生貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆえに清浄と云う、歓喜光仏無瞋の善根よりして生ずるがゆえに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆえに、智慧光仏無痴の善根の心より起これば、また衆生の無明品心を除くがゆえに、不断光仏仏の常光恒に照益をなすがゆえに、難思光仏もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆえに、無称光仏また余乗等、説くこと堪うるところにあらざるがゆえに、超日月光仏日は応じて恒に照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるがゆえに、みなこれ光触を身に蒙るは、身心柔軟の願の致すところなり。已上抄要
しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。『経』(涅槃経)には「我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」と言えり。かるがゆえに知りぬ、安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。また『経』(涅槃経)には「衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ることを得」と言えり。
(念仏三昧宝王論)『起信論』に曰わく、「もし説くといえども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念