<第十六首>
仏法あなずるしるしには
比丘比丘尼を奴婢として
法師僧徒のとうとさも
僕従ものの名としたり
已上十六首これは愚禿が
かなしみなげきにして述懐
としたり。この世の本寺本
山のいみじき僧ともうすも
法師ともうすも うきこと
なり
釈親鸞書之
<第一首>
善光寺の如来の
われらをあわれみましまして
なにわのうらにきたります
御名をもしらぬ守屋にて
<第二首>
そのときほとおりけともうしける
疫癘あるいはこのゆえと
守屋がたぐいはみなともに
ほとおりけとぞもうしける
<第三首>
やすくすすめんためにとて
ほとけと守屋がもうすゆえ
ときの外道みなともに
如来をほとけとさだめたり
<第四首>
この世の仏法のひとはみな
守屋がことばをもととして
ほとけともうすをたのみにて
僧ぞ法師はいやしめり
<第五首>
弓削の守屋の大連
邪見きわまりなきゆえに
よろずのものをすすめんと
やすくほとけともうしけり
親鸞八十八歳御筆
獲の字は、因位のときうるを獲という。得の字は、果位のときにいたりてうることを得というなり。名の字は、因位のときのなを名という。号の字は、果位のときのなを号という。自然というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しから