無上の力を得たり。故に此の菩薩を大勢至と名く。此の菩薩を觀ん者は、無數劫阿僧祇の生死の罪を除き、胞胎に處せずして、常に諸佛の淨妙の國土に遊ばん」と。『觀經』意 「無量無邊無數劫に、廣く願力を修して彌陀を助け、常に大衆に處して法言を宣ぶ。衆生の聞かん者は淨眼を得ん。 神通もて十方の國に周遍して、普く一切衆生の前に現ず。衆生若し能く至心に念ぜば、皆悉く導きて安樂に至らしめん」と。龍樹『讃』(迦才淨土卷中所引讃觀音勢至二菩薩偈) 又(二菩薩偈)云く。「觀音・勢至は大名稱あり。功德・智惠倶に無量なり。慈悲を具足して世間を救ひ、徧く一切衆生海に遊びぶ。是の如きの勝れたる人は甚だ遇ふこと難し。一心に恭敬し頭面に禮したてまつる」と。已上 是の如きの一生補處の大菩薩は、其の數恒沙の如し。色相端嚴にして功德具足し、常に極樂國に在りて彌陀佛を圍繞したてまつる。又諸の聲聞衆も其の數量り難し。神智洞達して、威力自在なり。能く掌の中に於て一切の世界を持つ。設ひ大目連の如きもの、百千万億無量無數ありて、阿僧祇劫に於て、悉く共に彼の初會の聲聞を計挍せんに、知る所の數は猶一渧の如く、其の知らざる所は大海の水の如し。其の中に般泥洹し去る者は無央數にして、新に阿羅漢を得る者も亦無央數なり。而も都て增減を爲さず。譬へば大海の恒水を減ずと雖も、恒水を加ふと雖も、而も增無く亦減無きが如し。諸の菩薩衆は、復上の數に倍す。『大論』(卷三四)に云ふが如し。「彌陀佛の國には、菩薩僧は多く、聲聞僧は少なし」と。已上 是の如きの聖衆、其の國に充滿す。互に遙に相瞻望し、遙に語聲を聞き、同一に道を求めて異類有ること無し。何に況や復十方恒沙の佛土の、無量塵數の菩薩・聖衆は、各々神通を現じて安樂國に至り、尊顏を瞻仰して、恭敬し供養したてまつる。或は天の妙華を賷し、或は妙寶の香を燒き、或は無價の衣を獻じ、或は天の妓樂を奏して和雅の音を發し、世尊を歌嘆し、經法を聽受して、道化を宣布す。