是の如くに往來すること晝夜に絶えず。東方に去れば西方より來り、西方に去れば北方より來り、北方に去れば南方より來る。四維・上下も互ひに亦是の如し。更相に開避すること、猶し盛なる市の如し。此等の大士は、一び其の名を聞くすら尚少縁に非ず。況や百千万劫にも誰か相見ることを得る者あらん。然るに彼の國土の衆生は常に一處に會し、互に言語を交へ、問訊し恭敬し、親近し承習す。亦樂しからずや。已上『雙卷經』『觀經』『平等覺經』等意 龍樹の『偈』(十住毗婆沙論卷五易行品)に曰く。「彼の土の諸の菩薩は、諸の相好を具足し、皆自ら身を莊嚴す。我今歸命し禮したてまつる。 三界の獄を超出して、目は蓮華葉の如し。聲聞衆無量なり。是の故に稽首し禮したてまつる」と。又(十二禮)云く。「十方より來る所の諸の佛子、神通を顯現して安樂に至り、尊顏を瞻仰して常に恭敬す。故に我彌陀佛を頂禮したてまつる」と。
[二、欣求淨土 見佛聞法]
第八に見佛聞法の樂とは、今此の娑婆世界は、佛を見たてまつりて法を聞くこと甚だ難し。師子吼菩薩(心地觀經卷一)の言く。「我等無數百千劫に、四無量・三解脱を修して、今大聖牟尼尊を見たてまつるは、猶し盲龜の浮木に値へるが如し」と。又儒童は全身を捨てて、始めて半偈を得たり。常啼は肝府を割きて遠く般若を求めたり。菩薩すら尚爾なり、何に況や凡夫をや。佛舍衞に在ますこと二十五年、彼に九億の家あり。三億は佛を見、三億は纔に聞き、其の餘の三億は見ず聞かず。在世尚爾なり、何に況や滅後をや。故に『法華』(卷五)に云く。「是の諸の罪の衆生は、惡業の因縁を以て、阿僧祇劫を過ぐれども、三寶の名をも聞かず」と。而るに彼の國の衆生は、常に彌陀佛を見たてまつり、恒に深妙の法を聞く。謂く嚴淨の地の上には菩提樹有り、枝葉四に布き、衆寶もて合成せり。樹の上には寶の羅網を覆ひ、條の間には珠の瓔珞を垂る。風枝葉を動かせば、聲妙法を演べ、其の聲流布して諸佛の國に徧ず。其れ聞くこと有らん者は、深法忍を得て不退轉に住し、耳根淸徹す。樹の色を覩、樹の香を聞ぎ、樹の味を甞め、樹の光に觸れ、樹の相を縁ずるも、一切亦然なり。