嚴淨の土を志求し、決を受けて當に作佛すべし。一切の法は猶し夢幻響の如しと覺了するも、諸の妙願を滿足して、必ず是の如きの刹を成ぜん。法は電影の如しと知るも、菩薩の道を究竟し、諸の功德の本を具し、決を受けて當に作佛すべし。諸法の性は一切空無我なりと通達するも、專ら淨き佛土を求め、必ず是の如き刹を成ぜんと。已上 況や復水鳥・樹林、皆妙法を演べ、凡そ聞かんと欲する所は、自然に聞くことを得るをや。是の如きの法樂は、亦何れの處にか在らんや。此の中は多く『雙卷經』『平等經』等の意に依れり 龍樹の『讃』(十二禮)に曰く。「金底寶間の池に生ぜる華は、善根所成の妙臺座なり。彼の座の上にして山王の如し。故に我彌陀佛を頂禮したてまつる。 諸有は無常・無我等なり。亦水月・電・影・露の如しと、衆の爲に法の名字無きことを説きたまふ。故に我彌陀佛を頂禮したてまつる。願はくは諸の衆生と共に安樂國に往生せん」と。
[二、欣求淨土 隨心供佛]
第九に隨心供佛の樂とは、彼の土の衆生は、晝夜六時に常に種種の天華を持して、無量壽佛を供養し、又意に他方の諸佛を供養せんと欲すること有らば、即ち前みて長跪し叉手して佛に白せば、則ち之を可したまふ。皆大に歡喜し、千億万の人、各自翻飛し、等輩相追ひ、倶共に散飛し、八方・上下、無央數の諸佛の所に到り、皆前みて禮を作し、供養し恭敬したてまつる。是の如く毎日晨朝に、各々衣裓を以て衆の妙花を盛りて他方の十万億の佛を供養したてまつる。及び諸の衣服・伎樂、一切の供具、意に隨ひて出生して供養し恭敬す。即ち食時を以て本國に還り到りて、飯食し經行して諸の法樂を受く。或は言く。毎日三時諸佛を供養したてまつると。行者今遺敎に從ひて、十方佛土の種種の功德を聞くことを得、見るに隨ひ聞くに隨ひて、遙かに戀慕を生ず。各々謂ひて言く。我等何れの時にか十方の淨土を見ること得、諸佛・菩薩に値ひたてまつることを得んと。敎文に對する毎に嗟嘆せずといふこと無し。而るに若し適々極樂國に生ずることを得ば、