二は深心。深心と言ふは、即ち是深信の心なり。亦二種有り。一には決定して深く自身は現に是罪惡生死の凡夫、曠劫より已來、常に沒し常に流轉して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して深く彼の阿彌陀佛の四十八願は、衆生を攝受して、疑無く慮無く彼の願力に乘じて、定んで往生を得と信ず。又決定して深く釋迦佛此の觀經に三福九品定散二善を説きて、彼の佛の依正二報を證讃して、人をして欣慕せしむと信ず。又決定して彌陀經の中に、十方恆沙の諸佛、一切の凡夫を證勸して、決定して生を得と深信せよ。又深信する者、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心に唯佛語を信じて、身命を顧みず、決定して行に依て、佛の捨て遣めたまふをば即ち捨て、佛の行ぜ遣めたまふをば即ち行ず、佛の去ら遣めたまふ處をば即ち去つ。是を佛敎に隨順し、佛意に隨順すと名く、是を佛願に隨順すと名く、是を眞の佛弟子と名く。又一切の行者、但能く此の經に依て行を深信する者は、必ず衆生を悞らずなり。何を以ての故に、佛は是滿足大悲の人なるが故に、實語なるが故に、佛を除きて已還は、智行未だ滿たずして、其の學地に在りて、正習の二障有りて未だ除こらずに由て、果願未だ圓かならざる。此等の凡聖は、縱使ひ諸佛の敎意を測量すれども、未だ決了すること能はず。平章有りと雖も、要ず須く佛證を請ひて定と爲べしなり。若し佛の意に稱へば、即ち印可して如是如是と言はく。若し佛意に可はざれば、即ち汝等が所説、是の義不如是と言ふ。印せざるは即ち無記・無利・無益の語に同じ、佛の印可したまふをば、即ち佛の正敎に隨順す。若し佛の所有の言説は、即ち是正敎・正義・正行・正解・正業・正智なり。若しは多若しは少、衆て菩薩・人・天等を問はず、其の是非を定めんや。若し佛の所説は即ち是了敎なり、菩薩等の説は盡く不了敎と名づるなり。應に知るべし。是の故に今の時、仰いで