念佛往生は機に當りて時を得たり。感應豈唐捐ならんや。當に知るべし、隨他の前には蹔く定散の門を開くと雖も、隨自の後には還て定散の門を閉づ。一び開きて以後永く閉ぢざるは、唯是念佛の一門なり。彌陀の本願・釋尊の付屬、意斯に在り。行者應に知るべし。亦此の中に遐代といふは、『雙卷經』の意に依るに、遠く末法万年の後の百歳の時を指すなり。是則ち遐を擧げて邇を攝するなり。然れば法滅の後、猶以て然なり、何に況や末法をや。末法已に然なり、何に況や正法・像法をや。故に知んぬ、念佛往生の道は正・像・末の三時、及び法滅百歳の時に通ずといふことを。

[一三、多善根章]
  念佛を以て多善根と爲し、雜善を以て少善根と爲るの文

『阿彌陀經』に云く。「少善根福德の因縁を以て、彼の國に生ずることを得べからず。舍利弗、若し善男子・善女人有りて、阿彌陀佛を説くを聞きて、名號を執持すること、若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心にして亂れざれは、其の人命終の時に臨みて、阿彌陀佛諸の聖衆と現じて其の前に在まさん。是の人終らん時、心顛倒せずして、即ち阿彌陀佛の極樂國土に往生することを得ん」と。
善導(法事讃卷下)此の文を釋して云く。「極樂は無爲涅槃の界なり、隨縁の雜善恐らくは生じ難し。故に如來要法を選びて、敎へて彌陀を念ぜしめて、專にして復專ならしめたまへり。七日七夜心無間に、長時の起行も倍々皆然なり。臨終に聖衆華を持ちて現ず。身心踊躍して金蓮に坐す。坐する時即ち無生忍を得、一念に迎將して佛前に至る。法侶衣を將ちて競ひ來りて著せしむ。不退を證得して