阿難に付屬せず、而も念佛の法を選びて即ち以て阿難に付屬す。觀佛三昧の法、尚以て付屬せず、何に況や日想・水想等の觀に於てをや。然れば則ち十三の定觀は、皆以て付屬せざる所の行なり。然るに世の人若し觀佛等を樂ひて、念佛を修せざるは、是遠くは彌陀の本願を乖き、亦是近くは釋尊の付屬に違するに非ずや。行者宜しく商量すべし。次に散善の中に、大小持戒の行有り。世皆以爲へらく、持戒の行者は是入眞の要なり、破戒の者は往生すべからずと。又菩提心の行有り。人皆以爲へらく、菩提心は是淨土の綱要なり、若し菩提心無くば、即ち往生すべからずと。又解第一義の行有り。此は是理觀なり。人亦以爲へらく、理は是佛の源なり、理を離れて佛土を求むべからず、若し理觀無くば往生すべからずと。又讀誦大乘の行有り。人皆以爲へらく、大乘經を讀誦して、即ち往生すべし、若し讀誦の行無くば、往生すべからずと。此に就て二有り。一には持經、二には持咒なり。持經といふは、『般若』・『法華』等の諸大乘經を持つなり。持咒といふは、『隨求』・『尊勝』・『光明』・『阿彌陀』等の諸の神咒を持つなり。凡そ散善の十一人、皆貴しと雖も而も其の中に於て、此の四箇の行は、當世の人、殊に欲する所の行なり。此等の行を以て、殆ど念佛を抑ふ。倩々經の意を尋ぬれば、此の諸行を以て付屬し流通せず、唯念佛の一行を以て、即ち後世に付屬し流通せしむ。應に知るべし、釋尊の諸行を付屬したまはざる所以は、即ち是彌陀の本願に非ざるが故なり。亦念佛を付屬したまふ所以は、即ち是彌陀の本願なるが故なり。今又善導和尚、諸行を廢して念佛に歸せしむる所以は、即ち彌陀の本願爲る上に、亦是釋尊の付屬の行なればなり。故に知んぬ、諸行は機に非ずして時を失へり、