觀佛三昧は殊勝の行なりと雖も、佛の本願に非ず、故に付屬せず。念佛三昧は、是佛の本願なり、故に以て之を付屬す。「望佛本願」と言ふは、『雙卷經』の四十八願の中の第十八の願を指すなり。「一向專稱」と言ふは、同じき『經』の三輩の中の一向專念を指すなり。本願の義、具に前に辨ずるが如し。 問て曰く。若し爾らば、何が故ぞ直ちに本願の念佛の行を説かずして、煩しく非本願の定散の諸善を説くや。答て曰く。本願念佛の行は、『雙卷經』の中に委しく既に之を説く、故に重ねて説かざるのみ。又定散を説くことは、念佛の餘善に超過せることを顯さんが爲なり。若し定散無くば何ぞ念佛の特に秀でたることを顯さんや。例へば『法華』の三説の上に秀でたるが如し。若し三説無くば、何ぞ『法華』の第一なることを顯さん。故に今定散は廢の爲に而も説き、念佛三昧は立の爲に而も説く。但し定散の諸善、皆用ひて測り難し。凡そ定善といふは、夫れ依正の觀、鏡を懸けて而も照臨し、往生の願、掌を指して而も速疾なり。或いは一觀の力、能く多劫の罪M001120を袪き、或は具憶の功、終に三昧の勝利を得たり。然れば則ち往生を求めん人、宜しく定觀を修行すべし。就中、第九の眞身觀は、是觀佛三昧の法なり。行若し成就すれば、即ち彌陀の身を見たてまつる。彌陀を見たてまつるが故に、諸佛を見たてまつることを得。諸佛を見たてまつるが故に、現前に授記す。斯の觀の利益、最も甚深なり。然るに今『觀經』の流通分に至りて、釋迦如來、阿難に告命して、往生の要法を付屬し流通せしむるに因みて、觀佛の法を嫌ひて、