十念に罪滅して生を得。此の三品は、尋常の時、唯惡業を造りて往生を求めずと雖も、臨終の時、始めて善知識に遇ひて、即ち往生を得。若し上の三福に準ぜば、第三の福の大乘の意なり。定善・散善、大槩此の如し。文に即ち「上來雖説定散兩門之益」と云へる是なり。 次に念佛といふは、專ら彌陀佛の名を稱する是なり。念佛の義は常の如し、而るに今、正しく彌陀の名號を付屬して流通することを遐代に明かすと言ふは、凡そ斯の經の中に、既に廣く定散の諸行を説くと雖も、即ち定散を以て阿難に付屬して後世に流通せしめず、唯念佛三昧の一行を以て、即ち阿難に付屬して遐代に流通せしむるなり。 問て曰く。何が故ぞ定散の諸行を以て、而も付屬流通せざるや。若し夫れ業の淺深に依て、嫌ひて付屬せざれば、三福業の中に、淺有り深有り。其の淺業といふは、孝養父母・奉事師長なり。其の深業といふは、具足衆戒・發菩提心・深信因果・讀誦大乘なり。須く淺業を捨てて深業を付屬すべし。若し觀の淺深に依て嫌ひて付屬せずば、十三觀の中に、淺有り深有り。其の淺觀といふは日想・水想是なり。其の深觀といふは始め地觀より雜想觀に終るまで、總じて十一觀是なり。須く淺觀を捨てて深觀を付屬すべし。就中、第九の觀は是阿彌陀佛觀なり。即ち是觀佛三昧なり。須く十二觀を捨てて觀佛三昧を付屬すべし。就中、同じき『疏』の『玄義分』(意)の中に云く。「此の經は觀佛三昧を宗と爲し、亦念佛三昧を宗と爲す」と。既に二行を以て一經の宗と爲す、何ぞ觀佛三昧を廢して、而も念佛三昧を付屬するや。答て曰く。「佛の本願の意を望まんには、衆生をして一向に專ら彌陀佛の名を稱するに在り」(散善義)と云へり。定散の諸行は本願に非ず、故に之を付屬せず。亦其の中に於て、