財物の有無にとらわれ、みな憂いあり
現代は〃物〃の使い捨ての時代である。いとも簡単に捨てていく。 もう一ト工風、何とか使いようがないものかといった心遣いはさらにない。 昔の人はじつに物を大切にしたものである。二度も三度も用に立てて、最後に始末する ときはつつしみ深くその労をねぎらうことを以ってした。亡くなった父がそうであったし、 母もまたそうであった。「勿体ない」という言葉をよく聞かされたものである。 では、昔の人はそれほど「物」に執着していたのであろうか?。現代のわれわれは執着の 心が薄いのであろうか?。むしろその反対であろう。昔は、今程「物」が出廻っていなかっ たことも原因しようけれど、わが身の果報として、「賜わった」ものとして大切に取扱って いた。「物」にもいのちを見出していたのである。 今日、われわれは、あらゆる「物」にめぐまれて、その暮しぶりは昔からすればまざに分限者 なみなのであるが、それでいて心ゆたかに喜びを味わっているかというに、心はいよいよ 貧しく、執着の思いはいよいよ深い。使い捨てていくということは、さらに新しいもの、 より良いものを欲しがっていることであり、はては、ないものねだりにすらなっていく・・・。 わが身に受けられた果報を果報といただくことを知らないわたくしなのである。 末世になるにつれて、人間界の果報は薄くなるとかねて聞かされているが、それはわが身 に受けた果報を果報と知らない傲慢さがそのような世界を作りなしていくのである。「果 報」「冥加」を知らない心はまさしく有財餓鬼である。 「物」にめぐまれた今日、われわれは、ますます執着の心が深い。けれども、はからずも何 かの縁にふれて、こうしたわたしだったと知らされてくることがある。まわりのいろいろ のことが縁となって向うさまから教え育ててくださる。つねに「賜わった」廻向の中に生 かされているわが身なのである。・ (昭和52年6月)2006年8月12日