世の人ともに急がぬことをあらそう
「忙しい」というのはわれわれの口癖である。何がそのように忙しいのかといわれれば とっさには返事に困るがとにかく「忙しい」のである。その忙しさの中身を吟味してみれ ば「楽になりたいため」にあれこれ追いまわされているのである。楽になるのも楽じゃな いなアということである。 "狭い日本。そんなに急いで何処え行く"という交通安全の看板をいたるところで見かけ るが、問われてみればほんとうに私は何処え行こうというんだろう。しかもこんなに急い で!。 まだ国もとの長崎に居たころ、こんな話を聞いたことがある。 仏教青年会の例会日のことであった。 「先生。ぼくは今夜はたぶん欠席するところだったんです。それが昼間友達から声をかけ られましてね。 「今夜の仏青の例会には君も行くんだろう?」 「ウン。でも用事があるんでなあ」 「君。人間、死ぬまで用事はあるんだよ!」。ぼくは、はっとしました。ほんとうに人間、 死ぬまで忙しいんですね」。 問題はその中から、どれを大事とし、どれを急がねばならぬかである。急がねばならぬ ことはもっとほかにあるはづなのに、毎日、不急のことを諍ってせかせかと生きているので ないか。「忙」という字は(りっしんべん)(心)に亡うとなっている。あまりの忙しさに我れを失っ て方角も立たぬままに走りまわっているわたしなのである。 そうしたあわただしさの中からは「今日一日の意義」は見出せない。今日の一日がいか にせわしく、わずらわしく、苦しくとも、浄土に支えられ、厭うべき現実を一歩一歩確実 に歩むのが信心の生活である。今日の一日をとうして向うべき方角を見出し、大事なこと に気づかせて貰って、急がねばならぬことを急ぎたいものである。 いたずらに、未来にばかり望をかけ、夢を追っていては、今日も一日むやみに忙しいばか りで、満ち足りた安らかな思いはでてこない。 今日の一日を大切に。今日の一歩一歩がわたしの生のすべてであるような生活。そうし た生活をこそ、いそぎ成就したいものである。 (昭和52年5月)2006年8月12日