身は苦難の中にあり もとめて法を聞け
「身は苦難の中にあり」といわれるが、本当にそうと受取っているであろうか。 さしたる問題もなく、適当に毎日を過ごしている一。いやひたすら「楽しみ」を追い、 レジャーとかいう舌を噛みそうな流行語におどらされている浮足立った日々の暮しは、い つしか何がほんものなのかを考えることすら忘れさせてしまった。たまたま難儀なことに 出合うと、すべて、これまわりのせいだとして恨みごとをのべ、当面の解決だけを求めて深 く問題の根底を押えようとしない。 なにしろ、苦労が嫌いで楽が好きであり、得が好きで損が嫌いなので、こと面倒なことは ご免こうむりたいのである。したがって深く考えることは苦手であり「真実」を聞かされ るのが怖い。仏法とは真実を言いあてて下さるものであるから、耳に痛いのである。 「もとめて法を聞け」といわれても求道の心を持たないわれらなのである。せいぜい「苦 しいときの神頼み」か、当座の気休めとしてよりほか、宗教を考えていないのである。そ のために「宗教は阿片である」とかいわれ、「念仏」を逃げ場所にして宗教的閉鎖性に墜ち てしまうのである。 そこに、あるがままの相をあるがままに受けとらせていただく、このことが「身は苦難の 中にあり」と、今日の生活をとおして苦しみを感じるとき、われらはその苦しみから逃げ て閉じこもったり、何かとすりかえようとする、そうした行きかたが省みられるのである。 「念仏もうす身でありながら、そのように逃げようとすることは、それは日ごろの信心が はっきしていないことのあらわれではないか」と親鷺聖人は誡めておられる。 苦しいことや不本意なことに出合う、そうした中で道を求めて法を聞いていけるのは、 単なる意地でなく、どこまでも自己を明らかにする信心の問題として受取っていけるから である。 苦しみの多いわれなればこそ、真実のねがいに気づかせていただいたのである。 (昭和52年4月)2006年8月12日