ほとけの智慧は深広にしてはてなし
不思議とはわからないということではない。よくわかることである。よく「不思議なご 縁で・・・」という言葉が使われるが、それは経過(なりゆき)を通して、さらに言葉では 言いつくせないないものを感得するからである。不思議とは遇い難いものに遇い得た深い 感動なのである。 わたくしたちは事毎に思いはからうものであるが、それはつまるところわが「思い」に ほかならない。「それはこうである」と決めるのは自分の都合によってである。 しかし、如来の領域は人間の思いで測量(おもいはからう)できるものではない。如来の 領域は人間を超えた世界である。如来のみが知りたもうところである。もし、わかるはづ もないこの身に少しでも肯ずかせていただけることがあるならば、それは如来の智慧に よって開かれた心であろう。 『大無量寿経』に「如来智慧海、深広無涯底」(如来の智慧海は深広にして涯底なし)(真 宗聖典50頁)とあもが、われ自身気づいていない心の奥深いところに融いている真実の 願いを開顕して下さるものは如来の智慧であり、深広にして涯(はて)なしとは、それほどの御ン 智慧を以ってしなければ照し破ることのできない私の迷いの深さなのである。底無し沼と もいうべきところに、常没流転しているわたくしを助けとらんがために「地獄の底までも」 来て下さる如来の大慈悲のお心は私の無明を破る大智を以って具体的にはたらいて下さる。 これが如来の教法である。 このおいわれ(み教え)に遇た喜びを「不思議」と頂戴するのである。 (昭和52年3月)2006年8月11日