み名称うれば み仏はいまここに在す

「木像よりは絵像。絵像よりは名号」とはつねに聞かせていただくお話であるが、これに はさらに前のことばがある。ご承知のように、「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり・・・」との『蓮如上人御一代聞書』のおことばである。 これを聞くとき、わたしたちはご当流であって他流ではないから・・・と、他人事として 済ませがちであるけれど、この「名号」と示されるおことばをどこまで深くいただいてい るであろうか。 「名号」は如来御ン自らかのお名告である。名告とはご自身の全内容をこめての呼びかけ なのである。如来ご自身の願いのおことばである。 呼びかけといえば、私がこの世に生まれてきて最初に呼びかけられたことばは何であっ たろうか。それは「お母さん」ということばであったにちがいない。「今日は。赤ちゃん。 わたしがママよ」。と自ら「母」と名告り、繰返し繰返し「お母さんだよ」、「お母さんがね」 と語りかけてくださった。その名告は母として願いのことばである。わたしはその名告に 迎えとられ、その願いに育てられて今日がある。 「お母さん」ということばは母自身から出でて子供のいのちとなった。 そこから「・・・当流においては・・・名号というなり」と名号に眼目がおかれる所以をも 領解することができるであろう。御ン自ら名告りつつ、自らの願いを名告にあらわしてお られる。これが、如来の本願がわたしに働きかけてくださるすがたなのである。 いま、わたしが、念仏申させていただくことは、その本願に値いまつった、み教えを開かせて いただいているということなのである。わたしは、み教え(法)によってはじめて仏を拝ま せていただく。お念仏申すときはじめてそこにみ仏を拝することができるのである。 名号は、如来の本願から出でて、わたしのいのちとなってくださった。「今現在説法」と、今 日、み仏は念仏申すところにおわしますのである。 (昭和52年10月)

2006年8月16日