凡愚のわが身に ただ念仏のすくいあり

わたしたちは軽々しく「凡夫」という言葉を口にするけれど、それには「・・・どうせ」 ということが頭についているのである。「どうせ凡夫だから」というときは「わが身は悪き・・・」という懺悔はないのである。むしろ、開き直ったふてぶてしさがありはしないだろう か。まして自己主張の風潮盛ないまの時代に「譲る」ことは「敗退」につながるとして、 いよいよ自己を主張して止まないのである。 そのわたしが「法」に遇い、教えを聞かせていただくときはじめて「凡愚の身」とは知 らしめらるるのである。凡愚の身と知らしめられではじめて念仏申す思いとはなるのであ るが、念仏申してみればいよいよ身のほどが知られて、いまは「念仏」の前に頭が上らな いわたしなのである。 念仏は呪文や祈祷のことばではない。どこまでも「法」であり、生活のなかに生きて働 いてくださるものである。 親鸞聖人は称名の「称」という一字を大切に受けとめられて「軽重を知るなり」「斤両を正すなり」といただいておられる。 何が本当に大切なのかをも知らぬままに、むやみに忙しがっている毎日の暮しを顛倒した、 取り違えた生活といわれる。どだい、心を(りっしんべん(心))亡くした相が「忙」という字で ある。そこに「軽重を知るなり」といわれ、このすがたを正してくださるから「斤両を正 すなり」といわれるのであろう。 独楽は目まぐるしく廻るが、その中心をなす一点は静止している。この一点があるからこ そ独楽は廻ることができるのである。あわただしい日暮しの中に、一点、不動のもの、真 実なるもの、それが「法」といわれるものであり、そこに立返るとき、わが身の大切さも、 人生の重さも知られることである。 教えに遇うてはじめて「凡愚の身」と知らしめられ、生かされてあるこのいのちと頂戴 できるのである。
・・・わたしが悪かった。
いま、ここに坐ってみればそれがわかる。
こんな詩をむかし聞いたことが思い出される。(昭和52年11月)

2006年8月16日