随想その一 年を送る
毎年のことながら年末ともなると何となく心せわしい。片づけておきたいことが山ほど あるからである。平素の怠慢がいまさらのごとく悔まれる。
表の掲示板に
「いまでなくても・・・」が
「ついにとうとう・・・」に
なってしまうのは、じつに早い・・・。
ということばを、誌したことがあるがまさにそのとうりである。 亡くなった母が、よく口ぐせに言っていたものであるが「ふゆなし(怠け者)の節季働き」 と、長崎地方でいわれる。節季師走になって、いまさらのごとく、あわてふためく者を嘲った ものであろうが、私もまたその一人である。その日その日を、何となく過ごして来た者にとつ て、過ぎてきた日はなんと空しいことであろう。「これ一つ」という確かなものに出会わな かった空しさである。
親鷺聖人は
「本願力にあいぬれば
むなしく過ぐる人ぞなき」
とお歌いになった。
本願力。如来のご本願にあわれたうえから、はじめて、人間に生まれた意義が見出される というおぼしめしであろう。裏を返せば本願にあいまつらない限り、私の一生はついに徒 らごとであり、空しいということであろう。
み教えによって、私は本来、如来に願われている身であると知らさせていただく。
われ自身、心の深いところにいだいている大事な願いがあることを知れと、願われている身であ ると知るとき、かけがえのない我れと知り、とり返しのつかない人生の大切さも知らされ る。 「これ一つ」というものが明らかになったとき、はじめて「これでもう」と満足出来「いま はもう」といつでも応じられることとなろう。それは赴くべき方をしかと見極め得た、す なわち方角を持ち得た確かな足どりをもって、人生を旅する人の姿である。 一年とは、いわば人生の旅の一里塚であろう。一里塚を過ぎゆくほどに、旅の遠さも知ら れるが、また旅の終りの近きことをも知るのである。ここに、ただ単に長く生きのびて来 たから、旅が長かったというのではない。今日までの闇雲の暮しに気づいたとき迷いの旅 の長かったことを知り、真実の教えにあうことを得たとき、迷いの旅の終りを知らされる のである。 月日の流れにしたがって四季の変化があり、四季の一ト巡りをもって一年の区切を立て たことは先人の偉大な生活の知慧であると思う。私たちは、なにごとにもすぐ、なれっこに なってしまって、いわゆる惰性に流れがちである。そうした日常生活に一つの区切を立て て心を新たにしてゆくところに年あらたまることの意義があるのであろう。であるから年 の暮れに一応の整理をつけておきたいとの思いもあるし、過ぎてきたこの一年をふりか えってみることにもなるのである。 年のはじめに、もっともらしく考えてみた「1年の計」は、今年もまた絵そらごとだったか なとの淋しさは、毎年のことながら、それだけに「来年こそは」と何がなしに期待する思い も抱くのである。 折角、今日まで生きさせて貰ってきたのである。「こうして長生きさせていただきましたの でお蔭さまで気付かさせていただきました」ということが、何か一つあろうではないか。 このことを知るためにこそ、今日まで苦労してきたのである。このことが無いとしたらまさ しく「骨折損のくたびれもうけ」にすぎない。「空しく過ぐる者」である。 「馬齢を重ねる」という言葉がある。ただ何となく、生きながらえて徒らに年を重ねてきた わが身が省りみられる。 しかし、ここに如来の本願ましますと聞かさせていただく。目覚めることなき私に目を 覚ませと呼びかけてくださる。その呼びかけに気づかせていただいたとき、まさしく行く べきはこちらと、明らかに方向を持つことができ、五十年の人生が内容のあるものとなっ て、これからの暮しにつけても目的のある確かな道行きとして、「正月」を一里塚としてさら に一歩を進めさせていただくのである。 (昭和51年12月20日)2006年8月16日