「この心深信せること金剛のごとくなるに由る」(散善義)と。
明らかに知りぬ、一心はこれ信心なり、専念はすなわち正業なりと。一心の中に至誠・回向の二心を摂在せり。向の問の中に答え竟りぬ、と。
また問う。已前二経の三心と『小経』の執持と、一異云何ぞや。答う。『経』に言わく、「名号を執持すべし」と。「執」は心堅牢にして移らず、「持」というは不散不失に名づく。かるがゆえに不乱と曰えり。執持はすなわち一心なり、一心はすなわち信心なりと。しかればすなわち、執持名号の真説、一心不乱の誠言、必ずこれに帰すべし。特にこれを仰ぐべし。論家・宗師、浄土真宗を開きたるに、濁世の邪偽を導かんとなり。三経の大綱、隠顕ありといえども、一心を能入とす。かるがゆえに、経の始めに「如是」と称す。論主建めに「一心」と言えり。すなわちこれ如是の義を彰すなり。
いま宗師の解を披きたるに云わく、「「如意」と言うは、二種あり。一つには衆生の意のごとし、かの心念に随うてみなこれを度すべし。二つには弥陀の意のごとし、五眼円に照らし、六通自在にして、機の度すべき者