捨てて彼に從ふ。或は威德の天有り、心に順はざる時は、驅りて宮より出し住することを得 ること能はざらしむ『瑜伽』 餘の五の欲の天も、悉く此の苦有り。上の二界の中には、此の如き事無しと雖も、終に退沒の苦有り。乃至悲想も阿鼻を免れず。當に知るべし、天上も亦樂ふべからざることを。已上天道
[一、厭離穢土 總結厭相]
第七に總じて厭相を結すとは、謂く一篋は偏に苦なり、耽荒すべきに非ず。四山合し來り、避遁する所無し。而るに諸の衆生は、貪愛を以て自ら蔽ひ、深く五欲に著す。常に非ざるを常と謂ひ、樂に非ざるを樂と謂ふ。彼の癰を洗ひ睫を置くが如し、猶盍ぞ厭はざらん。況や復刀山・火湯漸く將に至らんとす、誰か智有らん者、此の身を寶玩せんや。故に『正法念經』の偈に云く。「智者の常に憂を懷くこと、獄中に囚はるるに似たり。愚人の常に歡樂することは猶し光音天の如し」と。『寶積經』(卷九六)の偈に云く。「種種の惡業もて財物を求め、妻子を養育して、歡娯と謂へども、命終に臨む時は苦身に逼り、妻子も能く相救ふ者無し。彼の三途怖畏の中に於て、妻子及び親識を見ず。車馬も財寶も他人に屬し、苦を受くるとき誰か能く苦を分つ者あらん。父母・兄弟及び妻子も、朋友・僮僕并に珍財も、死し去れば一として來りて相親しむもの無し。唯黑業のみ有りて、常に隨逐す。乃至 閻羅常に彼の罪人に告ぐ、少罪だも我能く加ふること有ること無し、汝自ら罪を作りて今自ら來る。業報自ら招きて、代る者無く、父母・妻子も能く救ふもの無し。唯當に出離の因を勤修すべし。是の故に應に枷鏁の業を捨て、善く遠離を知り安樂を求むべし」と。又『大集經』(卷一六)の偈に云く。「妻子も珍寶も及び王位も、命終の時に臨みて隨ふ者なし。唯戒と及び施と不放逸とは、今世と後世との伴侶と爲る」と。是の如く展轉して、惡を作り苦を受け、徒に生じ徒に死し、輪轉際無けん」と。『經』(雑阿含經卷三四)の偈に云ふが如し。「一人の一劫の中に受くる所の諸の身骨を、常に積みて腐敗せしめずんば、毗布羅山の如くならん」と。一劫すら尚爾り、