況や無量劫をや。我等未だ曾て道を修せず、故に徒に無邊劫を歴たり。今若し勤修せずば、未來も亦然るべし。是の如く無量生死の中に、人身を得ること甚だ難し。縱ひ人身を得るも、諸根を具することは亦難し。縱ひ諸根を具すとも、佛敎に遇ふことは亦難し。縱ひ佛敎に遇ふとも、信心を生ずることは亦難し。故に『大經』(北本卷三三・南本卷三一意)に云く。「人趣に生るる者は、爪の上の土の如く、三途に墮する者は、十方の土の如し」と。『法華經』(卷一)云く。「無量無數劫にも、是の法を聞くことは亦難し。能く是の法を聽く者あらば、此の人も亦復難し」と。而るに今適々此等の縁を具す。當に知るべし、苦海を離れて淨土に往生すべきは只今生にのみ在ることを。而るに我等頭には霜雪を戴きて、心は俗塵に染まば、一生は盡くと雖も、希望は盡きず、遂に白日の下を辭し、獨り黄泉の底に入らん時、、多百踰繕那、銅燃猛火の中に墮して、天を呼ばはり地を扣くと雖も、更に何の益か有らんや。願はくは諸の行者疾く厭離の心を生じ、速に出要の路に隨へ。寶の山に入りて手を空しくして歸ること莫れ。 問。何等の相を以て、厭ふ心を生すべきや。答。若し廣く觀ぜんと欲せば、前の所説の如く、六道の因果・不淨・苦等なり。或は復龍樹菩薩の、禪陀迦王を勸發せる偈(龍樹菩薩爲禪陀迦王説法要偈)に云く。「是の身は不淨九の孔より流れて、窮り已むこと有ること無きこと河海の如し。薄き皮もて覆蔽し淸淨なるに似たれども、瓔珞を假りて自ら莊嚴せるが猶し。諸の智有る人は乃ち分別し、其の虚誑なるを知りて便ち棄捨す。譬へば疥者の猛き焰に近づかんに、初は暫く悅ぶと雖も後は苦を增すが如し。貪欲の想も亦復然なり、始め樂着すと雖も終には患多し。身の實相は皆不淨なりと見る、即ち是空無我を觀ずるなり。若し能く斯の觀を修習する者は、利益の中に於て最も無上なり。色と族と及び多聞と有りと雖も、若し戒と智と無くんば禽獸の猶し。醜賎に處して聞見すること少しと雖も、能く戒と智とを修むれば勝士と名く。利衰の八法は能く免るるもの莫し、若し除斷すること有らば眞に匹無し。諸有沙門・婆羅門、父母・妻子及び眷屬の、彼の意の爲に其の言を受けて、廣く不善非法の行を造ること莫れ。