破戒無戒の人は定んで往生の望みを絶たん。然るに持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自餘の諸行、之に準へて應に知るべし。當に知るべし、上の諸行等を以て、本願と爲したまはば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からん。然れば則ち彌陀如來、法藏比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を攝せむが爲に、造像起塔等の諸行を以て往生の本願と爲したまはず、唯稱名念佛の一行を以て、其の本願と爲たまへり。故に法照禪師の『五會法事讃』(卷本)に云く。「彼の佛因中に弘誓を立てたまへり、名を聞きて我を念ぜんもの、總て迎來せん。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と持淨戒とを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず、但廻心して多く念佛せしむれば、能く瓦礫をして變じて金と成さしめむ」と。已上 問て曰く。一切の菩薩、其の願を立つと雖も、或いは已に成就せる有り、亦未だ成就せず有り。未審し、法藏菩薩の四十八願、已に成就りと爲んや、將未だ成就せず爲ん。答て曰く。法藏の誓願、一一に成就したまへり。何んとならば、極樂界の中に、既に三惡趣無し。當に知るべし、是即ち無三惡趣の願を成就したまへるなり。何を以てか知ることを得るとならば、即ち願成就の文(大經卷上)に「亦地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣無し」と云へる是なり。又彼の國の人天、壽終の後、三惡趣に更ること無し。當に知るべし、是即ち不更惡趣の願を成就したまへるなり。何を以てか知ることを得るとならば、即ち願成就の文(大經卷下)に「又彼の菩薩乃至成佛までに惡趣に更らず」と云へる是なり。又極樂の人天、既に以て一人として三十二相を具せざること有ること無し。當に知るべし、是即ち具三十二相の願を成就したまへるなり。何を以てか知ることを得るとならば、即ち願成就の文(大經卷下)に「彼の國に生ずる者は、皆悉く三十二相を具足す」と云える是なり。是くの如く初無三惡趣の願より、終得三法忍の願に至るまで、一一の