下とは下十聲・一聲等に至るまでなり。上とは上一形を盡すまでなり。上下相對の文、其の例惟れ多し。宿命通の願(大經卷上)に云く。「設ひ我佛を得んに、國の中の人天、宿命を識らずして、下百千億那由他諸劫の事を知らざるに至らば、正覺を取らじ」と。是の如く五神通、及以び光明・壽命等の願の中に、一一に「下至」の言を置けり。是則ち多從り少に至り、下を以て上に對する義なり。上の八種の願に例するに、今此の願の「乃至」といふは、即ち是下至なり。是の故に今善導の引釋したもふ所の下至の言は、其の意相違せず。 但し善導と諸師と、其の意不同なり。諸師の釋には、別して十念往生の願と云ふ、善導獨り總じて念佛往生の願と云へり、諸師の別して十念往生の願と云へるは、其の意即ち周からず。然る所以は、上一形を捨て下一念を捨つるが故なり。善導の總じて念佛往生の願と言へるは、其の意即ち周し。然る所以は、上一形を取り下一念を取るが故なり。

[四、三輩章]
  三輩念佛往生の文

「佛、阿難に告げたまはく。十方世界の諸天人民、其れ心を至して彼の國に生れんと願ずること有らん。凡そ三輩有り。其れ上輩は、家を捨て欲を棄て沙門と作り、菩提心を發し、一向に專ら無量壽佛を念じ、諸の功德を修して、彼の國に生れんと願ぜん。此等の衆生、壽の終らん時に臨みて、無量壽佛、諸の大衆と、其の人の前に現ぜん。即ち彼の佛に隨ひて其の國に往生せん。便ち七寶の花の中に於て、自然に化生し、不退轉に住せん。智慧勇猛にして、神通自在ならん。是の故に阿難、其れ衆生有りて、今世に於て無量壽佛を見たてまつらんと欲はば、應に無上菩提の心を發して、功德を修行して、彼の國に生れんと願ずべし。