佛、阿難に語りたまはく。其れ中輩は、十方世界の諸天人民、其れ心を至して彼の國に生れんと願ずること有らん。行じて沙門と作り大きに功德を修すること能はずと雖も、當に無上菩提の心を發して、一向に專ら無量壽佛を念ずべし。多少善を修し、齋戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け燈を然し、華を散らし香を燒かん。此を以て廻向して彼の國に生れんと願ぜん。其の人終に臨みて、無量壽佛其の身を化現して、光明相好、具に眞佛の如くならん。諸の大衆と、其の人の前に現ぜん。即ち化佛に隨ひて、其の國に往生し、不退轉に住せん。功德智慧、次で上輩の者の如くならん。
佛、阿難に告げたまはく。其れ下輩は、十方世界の諸天人民、其れ心を至して彼の國に生れんと欲ふこと有らん。假使ひ諸の功德を作すこと能はずとも、當に無上菩提の心を發して、一向に意を專にして、乃至十念、無量壽佛を念じて、其の國に生ぜむと願ずべし。若し深法を聞きて歡喜信樂して、疑惑を生ぜず、乃至一念、彼の佛を念じて、至誠心を以て、其の國に生れんと願ぜん。此の人終りに臨みて、夢の如くに彼の佛を見たてまつらん、亦往生を得ん。功德智慧、次いで中輩の者の如くならん。」(大經卷下)
私に問て曰く。上輩の文の中に、念佛の外に、亦捨家棄欲等の餘行有り。中輩の文の中に、亦起立塔像等の餘行有り。下輩の文の中に、亦菩提心等の餘行有り。何が故ぞ唯念佛往生と云ふや。答て曰く。善導和尚の『觀念法門』に云く。「又此の經の下卷の初めに云く。佛説きたまはく。一切衆生、根性不同にして、上中下有り。其の根性に隨ひて、佛皆勸めて無量壽佛の名を專念せしむ。其の人命終らんと欲する時、佛聖衆と自ら來りて迎接して、盡く往生を得しむ」と。此の釋の意に依て、三輩共に念佛往生と云ふなり。 問て曰く。此の釋未だ前の難を遮せず、何ぞ餘行を棄てて、