唯念佛と云ふや。答て曰く。斯に三の意有り。一には諸行を廢して念佛に歸せんが爲に、而も諸行を説くなり。二には念佛を助成せんが爲に、而も諸行を説くなり。三には念佛と諸行との二門に約して、各々三品を立てんが爲に、而も諸行を説くなり。一には、諸行を廢して念佛に歸せんが爲に、而も諸行を説くとは、善導の『觀經疏』(散善義)の中に「上來定散兩門の益を説くと雖も、佛の本願の意を望まんには、衆生をして一向に專ら彌陀佛の名を稱するに在り」と云へる釋の意に準へて、且く之を解せば、上輩の中に、菩提心等の餘行を説くと雖も、上の本願の意に望むるに、唯衆生をして專ら彌陀の名を稱せしむるに在り。而るに本願の中には更に餘行無し、三輩共に上の本願に依るが故に、「一向專念無量壽佛」と云ふなり。「一向」といふは、二向・三向等に對する言なり。例せば彼の五竺に三種の寺有るが如し。一には一向大乘寺、此の寺の中には、小乘を學すること無し。二には一向小乘寺、此の寺の中には、大乘を學すること無し。三には大小兼行寺、此の寺の中には、大小兼ねて學するが故に兼行寺と云ふ。當に知るべし、大小の兩寺には一向の言有り。兼行の寺には一向の言無し。今此の『經』の中の一向も亦然なり。若し念佛の外に、亦餘行を加へば、即ち一向に非ず。若し寺に準へば兼行と云ふべし。既に一向と云ふ、餘を兼ねざること明けし。既に先に餘行を説くと雖も、後に一向專念と云ふ。明らかに知んぬ、諸行を廢して唯念佛を用ふるが故に一向と云ふことを。若し然らずば、一向の言、最も以て消し叵きか。二には念佛を助成せんが爲に此の諸行を説くとは、此に亦二の意有り。一には同類の善根を以て念佛を助成し、二には異類の善根を以て念佛を助成す。初に同類の助成といふは、善導和尚の『觀經疏』の中に、五種の助行を擧げて、念佛の一行を助成する是なり。