後の義は即ち是傍正の爲に而も説く。謂く念佛と諸行との二門を説くと雖も、念佛を以て而も正と爲し、諸行を以て而もら傍と爲す。故に三輩に通じて皆念佛と云ふなり。但し此等の三義、殿最知り難し。請ふ諸の學者、取捨心に在るべし。今若し善導に依らば、初めを以て正と爲すのみ。 問て曰く。三輩の業、皆念佛と云ふこと、其の義然るべし。但し『觀經』の九品と『壽經』の三輩とは、本是開合の異なり。若し爾らば、何ぞ『壽經』の三輩の中には皆念佛と云ひて『觀經』の九品に至りて上・中の二品に念佛を説かずして、下品に至りて始めて念佛を説くや。答て曰く。此に二の義有り。一には問端に云ふが如く、『雙卷』の三輩と『觀經』の九品と開合の異ならば、此を以て應に知るべし、九品の中に皆念佛有るべし。云何が知ることを得とならば、三輩の中に皆念佛有り、九品の中に盍ぞ念佛無からんや。故に『往生要集』(卷下末)に云く。「問。念佛の行は、九品の中に於て是何れの品の攝なるや。答。若し説の如く行ぜば理上上に當れり。是の如く其の勝劣に隨ひて應に九品を分つべし。然るに經に説く所の九品の行業は、是一端を示せるのみ、理實には無量なり」と。已上 故に知んぬ、念佛亦九品に通ずべしといふことを。二には『觀經』の意、初には廣く定散の行を説きて、普く衆機に逗ず。後には定散の二善を廢して、念佛の一行に歸せしむ。所謂「汝好持是語」等の文是なり。其の義下に具に述ぶるが如し。故に知んぬ、九品の行、唯念佛に在りといふことを。

[五、利益章]
  念佛利益の文

『無量壽經』の下に云く。「佛、彌勒に語りたまはく。其れ彼の佛の名號を聞くことを得て、歡喜踊躍して、乃至一念せんこと有らん。當に知るべし。