此の人は大利を得と爲す。則ち是無上の功德を具足するなり」と。
善導の『禮讃』に云く。「其れ彼の彌陀佛の名號を聞くことを得ること有りて、歡喜して一念を至せば、皆當に彼に生ずることを得べし」と。
私に問て曰く。上の三輩の文に準ずるに、念佛の外に菩提心等の功德を擧げたり。何ぞ彼等の功德を歎ぜずして、唯獨り念佛の功德のみを讃むるや。答て曰く。聖意測り難し、定んで深き意有らん。且く善導の一意に依て、而も之を謂はば、原ねみれば夫れ佛意は正直に唯念佛の行を説かんと欲すと雖も、機に隨ひて一往菩提心等の諸行を説きて、三輩淺深不同を分別せり。然るに今諸行に於ては、既に捨てて、而も歎ぜず。置きて而も論ずべからざる者なり。唯念佛の一行に就て、既に選びて而も讃歎す。思ひて而も分別すべき者なり。若し念佛に約して三輩を分別せば、此に二の意有り。一には觀念の淺深に隨ひて、而も之を分別し、二には念佛の多少を以て、而も之を分別す。淺深とは、上に引く所の如し。「若し説の如く行せば理上上に當れり」といふ是なり。次に多少とは、下輩の文の中に、既に十念乃至一念の數有り。上・中兩輩は此に准じて隨ひて增すべし。『觀念法門』に云く。「日別に念佛一万徧せよ、亦須く時に依て淨土の莊嚴の事を禮讃すべし、大いに須く精進すべし。或は三万・六万・十万を得る者は、皆是上品上生の人なり」と。當に知るべし、三万已上は、是上品上生の業、三万已去は、是上品已下の業なり。既に念數の多少に隨ひて、品位を分別すること是明けし。今此に一念と言ふは、是上の念佛の願成就の中に言ふ所の一念と、下輩の中に明かす所の一念とを指すなり。願成就の文の中に、一念と云ふと雖も、未だ功德の大利を説かず。又下輩の文の中に、一念と云ふと雖も、亦功德の大利を説かず。此の一念に至りて、