説きて大利と爲し、歎めて無上と爲す。當に知るべし、是上の一念を指すなり。此の大利といふは、是小利に對する言なり。然れば則ち菩提心等の諸行を以て而も小利と爲し、乃至一念を以て而も大利と爲すなり。又無上の功德といふは、是有上に對する言なり。餘行を以て、而も有上と爲し、念佛を以て而も無上と爲すなり。既に一念を以て一無上と爲す。當に知るべし、十念を以て十無上と爲し、又百念を以て百無上と爲し、又千念を以て千無上と爲す。是の如く展轉して少從り多に至る。念佛恆沙なれば、無上の功德、復應に恆沙なるべし。是の如く應に知るべし。然れば諸の往生を願求せん人、何ぞ無上大利の念佛を廢して、強ちに有上小利の餘行を修せんや。
[六、特留章]
末法萬年の後、餘行悉く滅して特に念佛を留めたまふの文
『無量壽經』の下卷に云く。「當來の世に、經道滅盡せんに、我慈悲を以て哀愍し、特に此の經を留めて止住すること百歳せん。其れ衆生有りて、此の經に値ふ者は、意の所願に隨ひて、皆得度すべし」と。
私に問て曰く。『經』には唯「特留此經止住百歳」と云ひて、全く「特留念佛止住百歳」と云はず。然るに今何ぞ「特に念佛を留めたまふ」と云ふや。答て曰く。此の『經』の所詮、全く念佛に在り。其の旨前に見えたり、再び出すに能はず。善導・懷感・惠心等の意、亦復是の如し。然れば則ち此の『經』の止住といふは、即ち念佛の止住なり。然る所以は、此の『經』に菩提心の言有りと雖も、未だ菩提心の行相を説かず。又持戒の言有りと雖も、未だ持戒の行相を説かず。而るに菩提心の行相を説くことは、廣く『菩提心經』等に在り。彼の經先づ滅しなば、菩提心の行、何に因てか之を修せん。