念佛往生は遠く法滅百歳の代を霑すなり。 問て曰く。既に「我慈悲を以て哀愍し、特に此の經を留めて止住すること百歳せん」と云ふ。若し爾ば、釋尊慈悲を以て經敎を留めたまふ。何れの經何れの敎か留らざらんや。而るに何ぞ餘經を留めずして唯此の經を留めたまふや。答て曰く。縱ひ何れの經を留めたまふと雖も、別して一經を指さば、亦此の難は避けられず。但し特に此の經を留めたまふこと其の深き意有るか。若し善導和尚の意に依らば、此の經の中に、已に彌陀如來の念佛往生の本願を説きたまへり。釋迦の慈悲、念佛を留めんが爲に、殊に此の經を留めたまふ。餘經の中には、未だ彌陀如來の念佛往生の本願を説かず。故に釋尊の慈悲を以て而も之を留めたまはざるなり。凡そ四十八願皆本願なりと雖も、殊に念佛を以て往生の規と爲す。故に善導(法事讃卷上)釋して云く。「弘誓多門にして四十八なれども、偏に念佛を摽して最も親しと爲す。人能く佛を念ずれば佛還念じたまふ。專心に佛を想へば佛人を知ろめしたまふ」と。已上 故に知んぬ、四十八願の中に、既に念佛往生の願を以て、本願の中の王と爲すなり。是を以て釋迦の慈悲、特に此の經を以て止住すること百歳するなり。例せば彼の『觀無量壽經』の中に、定散の行を付屬せずして、唯孤り念佛の行を付屬したまふが如し。是即ち彼の佛願に順ずるが故に、念佛の一行を付屬するなり。 問て曰く。百歳の間、念佛を留むべきこと其の理然るべし。此の念佛の行は唯彼の時機に被らしむとや爲ん、將正・像・末の機に通ずとや爲ん。答て曰く。廣く正・像・末法に通ずべし。後を擧げて今を勸む、其の義應に知るべし。
[七、攝取章]
彌陀の光明、餘行の者を照らさずして、唯念佛の行者を攝取したまふの文