『觀無量壽經』に云く。「無量壽佛に八万四千の相有ます、一一の相に各々八万四千の隨形好有ます、一一の好に復八万四千の光明有ます、一一の光明、徧く十方世界を照らしたまふ、念佛の衆生をば攝取して捨てたまはず」と。
同じき經の『疏』(定善義)に云く。「無量壽佛より下攝取不捨に至る已來は、正しく身の別相を觀ずるに、光有縁を益することを明かす。即ち其の五有り。一には相の多少を明す、二には好の多少を明す。三には光の多少を明かす。四には光照の遠近を明す、五には光の及ぶ所處偏に攝益を蒙ることを明す。問て曰く。備に衆行を修して但能く廻向すれば、皆往生を得。何を以てか佛光普く照らすに、唯念佛の者のみを攝するは、何の意か有るや。答て曰く。此に三の義有り。一には親縁を明す。衆生、起行して口に常に佛を稱すれば、佛即ち之を聞きたまふ。身に常に佛を禮敬すれば、佛即ち之を見たまふ。心に常に佛を念ずれば、佛即ち之を知りたまふ。衆生佛を憶念すれば、佛亦衆生を憶念したまふ。彼此の三業相捨離せず、故に親縁と名くるなり。二には近縁を明す。衆生佛を見たてまつらんと願ずれば、佛即ち念に應じ現じて目の前に在ます。故に近縁と名くるなり。三には增上縁を明す。衆生稱念すれば、即ち多劫の罪を除く。命終らんと欲する時、佛聖聚と自ら來りて迎接したまふ。諸の邪業繋、能く礙ふる者無し。故に增上縁と名くるなり。自餘の衆行、是善と名くと雖も、若し念佛に比ぶれば、全く比挍に非ざるなり。是の故に諸經の中に、處處に廣く念佛の功能を讃へたり。無量壽經の四十八願の中の如き、唯彌陀の名號を專念して生を得と明す。又彌陀經の中の如し、一日七日、彌陀の名號を專念して生を得と。又十方恆沙の諸佛の證誠虚しからざるなり。又此の經の定散の文中に、唯名號を專念して生を得と標す。此の例一に非ざるなり。廣く念佛三昧を顯し竟んぬ」と。