『觀念法門』に云く。「又前の如きの身相等の光、一一に徧く十方世界を照らすに、但阿彌陀佛を專念する衆生有りて、彼の佛の心光常に是の人を照らして、攝護して捨てたまはず。總て餘の雜業の行者を照攝することを論ぜず」と。
私に問て曰く。佛の光明唯念佛者を照らして、餘行の者を照らさざるは、何の意か有るや。答て曰く。解するに二の義有り。一には親縁等の三義、文の如し。二には本願の義、謂く餘行は本願に非ず、故に之を照攝せず、念佛は是本願なり、故に之を照攝す。故に善導和尚の『六時禮讃』に云く。「彌陀の身色は金山の如し、相好の光明は十方を照らす。唯念佛するもの有りて光攝を蒙る。當に知るべし、本願最も強しと爲す」と。已上 又引く所の文の中に、「自餘の衆善是善と名くと雖も、若し念佛に比ぶれば、全く比挍に非ざるなり」と言ふは、意に云く、是淨土門の諸行に約して、而も比論する所なり。念佛は是既に二百一十億の中に、選び取る所の妙行なり。諸行は是既に二百一十億の中に、選び捨つる所の麁行なり。故に全く非比挍に非ずと云ふなり。又念佛は是本願の行なり、諸行は是本願に非ず、故に全く比挍に非ずと云ふなり。
[八、三心章]
念佛の行者、必ず三心を具足すべきの文
『觀無量壽經』に云く。「若し衆生有りて、彼の國に生れんと願ぜん者は、三種の心を發して、即便ち往生す。何等をか三と爲す。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。三心を具するは者は、必ず彼の國に生ず」と。
同じき經の『疏』
(散善義)に云く。「經に云く。一者至誠心。至は眞なり、誠は實なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず眞實心の中に作したまへるを須ひることを。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚假を懷きて、貪嗔邪僞奸詐百端にして、