三心既に具すれば、行として成ぜざる無し。願行既に成じて、若し生れざれば、是の處有ること無しと。又此の三心は亦定善の義を通攝すと。應に知るべし。」
『往生禮讃』に云く。「問て曰く。今人を勸めて往生せしめんと欲せば、未だ知らず、若爲が安心・起行・作業して、定んで淨國土に往生することを得るや。答て曰く。必ず彼の國土に生れんと欲はば、觀經の説の如し、三心を具して必ず往生を得。何等をか三と爲る。一には至誠心、所謂身業に彼の佛を禮拜す、口業に彼の佛を讃歎し稱揚す、意業に彼の佛を專念し觀察す。凡そ三業を起すに必ず眞實を須ひるが故に至誠心と名く。二には深心、即ち是眞實の信心なり。自身は是煩惱を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流轉して、火宅を出でずと信知す。今彌陀の本弘誓願は名號を稱すること下至十聲・一聲等に及ぶまで定んで往生を得しむと信知して、乃し一念に至るまで疑心有ること無し、故に深心と名く。三には回向發願心、所作の一切の善根、悉く皆回して往生を願ず、故に回向發願心と名く。此の三心を具して必ず生を得るなり、若し一心少けぬれば即ち生を得ず。觀經に具に説くが如し。應に知るべし。」
私に云く。引く所の三心は、是行者の至要なり。所以は何ん。『經』(観經)には則ち「三心を具する者は、必ず彼の國に生ず」と云ふ。明かに知んぬ、三を具して必ず應に生を得べし。『釋』(禮讃)には則ち「若し一心少けぬれば即ち生を得ず」と云ふ。明らかに知んぬ、一少けぬれば是更に不可なり。茲に因て極樂に生れんと欲はん人は、全く三心を具足すべし。其の中に至誠心とは是眞實の心なり。其の相彼の文の如し。但し外に賢善精進の相を現じ内に虚假を懷くといふは、外とは内に對する辭なり、謂く外相と