内心と調はざる意なり。即ち是外は智、内は愚なり。賢とは愚に對する辭なり、謂く外は是賢、内は即ち愚なり。善とは惡に對する辭なり、謂く外は是善、内は即ち惡なり。精進は懈怠に對する言なり、謂く外には精進の相を示し、内には即ち懈怠の心を懷くなり。若し夫れ外を翻じて内に蓄へば、祗に應に出要に備へつべし。内に虚假を懷く等とは、内とは外に對する辭なり。謂く内心と外相と調はざる意なり。即ち是内は虚、外は實なり。虚とは實に對する辭なり。謂く内は虚、外は實なる者なり。假とは眞に對する辭なり。謂く内は假、外は眞なり。若し夫れ内を翻じて外に播さば、亦出要に足んぬべし。次に深心とは、謂く深信の心なり。當に知るべし、生死の家には疑を以て所止と爲し、涅槃の城には信を以て能入と爲す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定する者なり。又此の中に一切の別解・別行・異學・異見等と言ふは、是聖道門の解行學見を指すなり。其の餘は即ち是淨土門の意なり。文に在りて見つべし。明かに知んぬ、善導の意、亦此の二門を出でざるなり。回向發願心の義、別の釋を俟つべからず。行者應に之を知るべし。此の三心は、總じて之を言へば、諸行の法に通じ、別して之を言へば、往生の行に在り。今通を擧げて別を攝す。意即ち周し。行者能く用心して、敢へて忽諸せしむること勿れ。

[九、四修章]
  念佛の行者、四修の法を行用すべきの文

善導の『往生禮讃』に云く。「又四修の法を勸めて行ぜしむ。何者をか四と爲る。一には恭敬修、所謂彼の佛及び彼の一切の聖衆等を恭敬し禮拜す。