私に云く。四修の文見つべし、繁きを恐れて解せず。但し前の文の中に既に四修と云ひて、唯三修のみ有り。若し其の文を脱せるか、若し其の意有りや。更に文を脱せるに非ず、其の深き意有り。何を以てか知ることを得るとならば、四修といふは、一には長時修、二には慇重修、三には無餘修、四には無間修なり。而るに初の長時を以て、只是後の三修に通用するなり。謂く慇重若し退せば、慇重の行、即ち成ずべからず。無餘若し退せば、無餘の行、即ち成ずべからず。無間若し退せば、無間の行、即ち成ずべからず。此の三修の行を成就せしめんが爲に、皆長時を以て三修に屬して、通じて修せしむる所なり。故に三修の下に、皆結して「畢命を期と爲して、誓ひて中止せざる、即ち是長時修なり」と云へる是なり。例せば彼の精進の餘の五度に通ずるが如き。
[十、化讃章]
彌陀の化佛來迎のとき、聞經の善を讃歎せずして、唯念佛の行を讃歎するの文
『觀無量壽經』に云く。「或は衆生有りて、衆の惡業を作らん、方等經典を誹謗せずと雖も、此の如きの愚人、多く衆惡を造りて慙愧有ること無けん。命終らんと欲する時、善知識の爲に大乘十二部經の首題の名字を讃ずるに遇はん。是の如きの諸經の名を聞くを以ての故に、千劫の極重の惡業を除卻す。智者復敎へて、合掌叉手して、南無阿彌陀佛と稱せしむ。佛名を稱するが故に、五十億劫の生死の罪を除く。爾の時彼の佛、即ち化佛・化觀世音・化大勢至を遣はして、行者の前に至り、讃して言はく。善男子、汝佛名を稱するが故に、諸の罪消滅す、我來りて汝を迎ふ」と。
同じき經の『疏』
(散善義)に云く。「所聞の化讃、但稱佛の功を述べて、我來迎汝をいひて、聞經の事を論ぜず。然るに佛願の意を望むには、