唯正念を勵め名を稱せしむ。往生の義の疾きことは雜散の業には同じからず。此の經及び諸部の中に、處處に廣く歎ずるが如きは、勸めて名を稱せしむるを將に要益と爲んとなり。應に知るべし。」
私に云く。聞經の善は是本願に非ず。雜業なるが故に、化佛讃ぜず。念佛の行は是本願なり。正業なるが故に、化佛讃歎す。加之、聞經と念佛と、滅罪の多少不同なり。『觀經疏』(散善義)に云く。「問て曰く。何が故ぞ經を聞くこと十二部するには、但罪を除くこと千劫、佛を稱すること一聲するには、即ち罪を除くこと五百万劫なるは、何の意ぞや。答て曰く。造罪の人障重く、加ふるに死苦來り逼むるを以て、善人多くの經を説くと雖も、飡受の心浮散す。心散ずるに由るが故に、罪を除くこと稍輕し。又佛名は是一なれども、即ち能く散を攝して以て心を住せしむれば、復敎へて正念に名を稱せしむ。心重きに由るが故に、即ち能く罪を除くこと多劫なり」と。
[一一、讃歎念佛章]
雜善に約對して念佛を讃歎するの文
『觀無量壽經』に云く。「若し念佛する者は、當に知るべし、此の人は是人中の分陀利華なり。觀世音菩薩・大勢至菩薩、其の勝友と爲りたまふ。當に道場に坐し諸佛の家に生ずべし」と。
同じき經の『疏』
(散善義)に云く。「若念佛者より下生諸佛家に至るまで已來は、正しく念佛三昧の功能超絶して實に雜善をして比類と爲ることを得るに非ざることを顯す。即ち其に五有り。一には彌陀佛の名を專念することを明す。二には能念の人を指讃することを明かす。三には若し能く相續して念佛する者、斯の人甚だ希有なりと爲す、更に物として以て之を方ぶべきこと無きことを明す。故に分陀利を引きて喩と爲す。分陀利と言ふは、