契經は乳の如し、調伏は酪の如し、對法の敎は彼の生酥の如し、大乘般若は猶し熟酥の如し、總持門は譬へば醍醐の如し、醍醐の味は乳・酪・酥の中に微玅第一なり、能く諸病を除きて、諸の有情をして身心安樂ならしむ。總持門は契經等の中に最も第一爲り、能く重罪を除きて諸の衆生をして生死を解脱して速に涅槃安樂の法身を證せしむ」と。已上 此の中に五無間罪とは、是五逆罪なり。即ち醍醐の玅藥に非ずば、五無間の病甚だ療し難しと爲す。念佛も亦然なり。往生の敎の中に、念佛三昧は是總持の如し、亦醍醐の如し。若し念佛三昧の醍醐の藥に非ずば、五逆深重の病、甚だ治し難しと爲す。應に知るべし。 問て曰く。若し爾らば下品上生は、是十惡輕罪の人なり、何が故ぞ念佛を説くや。答て曰く。念佛三昧は、重罪すら尚滅す、何に況や輕罪をや。餘行は然らず、或は輕を滅して重を滅せざる有り、或は一を消して二を消せざる有り。念佛は然らず、輕重兼ねて滅し、一切徧く治す。譬へば阿伽陀藥の徧く一切の病を治するが如し。故に念佛を以て王三昧と爲す。凡そ九品の配當は是一往の義なり。五逆の廻心は上上に通じ、讀誦の玅行は亦下下に通ず。十惡輕罪・破戒次罪、各々上下に通じ、觧第一義・發菩提心、亦上下に通ず。一法に各々九品有り、若し品に約せば即ち九九八十一品なり。加之、迦才(淨土論卷上)の云く。「衆生の起行既に千殊有り、往生して土を見るに亦萬別有り」と。一往の文を見て封執を起すこと莫れ。其の中に念佛は是即ち勝れたる行なり。故に分陀利を引きて以て其の喩と爲す。譬の意應に知るべし。加之、念佛の行者には、觀音・勢至、影と形との如く暫くも捨離したまはず。餘行は爾らず。又念佛する者は、捨命已後、決定して