極樂世界に往生す。餘行は不定なり。 凡そ五種の嘉譽を流し、二尊の影護を蒙る、斯は是現益なり。亦淨土に往生して、乃至成佛す、此は是當益なり。又道綽禪師、念佛の一行に於て、始終の兩益を立つ。『安樂集』(卷下)に云く。「念佛の衆生を攝取して捨てたまはず、壽盡きて必ず生ずと。此を始益と名く。終益と言ふは、觀音授記經に依るに云く。阿彌陀佛は、世に住したまふこと長久にして兆載永劫なるも、亦滅度したまふこと有り。般涅槃の時、唯觀音・勢至有りて安樂に住持して十方を接引せん。其の佛の滅度、亦住世の時節とに等同ならん。然るに彼の國の衆生は、一切佛を覩見したまへる者有ること無し。唯一向に阿彌陀佛を專念して往生する者のみ有りて、常に彌陀現に在まして滅したまはずと見ると。此れ即ち是其の終益なり」と。已上 當に知るべし、念佛には此の如き等の現當二世、始終の兩益有り。應に知るべし。
[一二、念佛付屬章]
釋尊定散の諸行を付屬したまはず、唯念佛を以て阿難に付屬したまふの文
『觀無量壽經』に云く。「佛、阿難に告げたまはく。汝好く是の語を持て。是の語を持てといふは、即ち是無量壽佛の名を持てとなり」と。
同じき經の『疏』
(散善義)に云く。「佛告阿難汝好持是語より已下は、正しく彌陀の名號を付屬して、遐代に流通することを明す。上來定散兩門の益を説くと雖も、佛の本願の意を望まんには、衆生をして一向に專ら彌陀佛の名を稱するに在り」と。
私に云く。『疏』の文を案ずるに二行有り。一には定散、二には念佛なり。初めに定散と言ふは、又分ちて二と爲す。一には定善、二には散善なり。 初めに定善に付て其の十三有り。一には日想觀、二には水想觀、三には地想觀、四には寶樹觀、五には寶池觀、六には寶樓閣觀、七には華座觀、八には像想觀、九には阿彌陀佛觀、