教えに聞く
3、4年ほど前、ご縁あって仲野良俊先生のご法話を聞かせていただいたことがある。 そのときの講題は「自分を聞く」であった。「自分に」でなくて「自分を」であると念を押 されたことをいまに感銘深く覚えている。「自分に」聞くとすると、都合の良い返事がかえっ てくる。または尤もらしい言訳がなされる。ともに無意識のうちにはたらいている身びい きと、勝他のおもいと、はては高慢さがそれを言わせるのである。 わが身の本来のすがたは、われと自身には、なかなか分らないものである。いや、分りた くないのかもしれない。しかし、それを明らかに言いあてて下さるのが仏のおことばなので ある。如来、如実の言である。聞きたくない言葉だけれど、耳にさからい、胸痛む言葉だ けれど、まこと、わたしを言いあてておられるお言葉。それが如実の言・お経である。 親鷺さまは「お経に読まれている」とおっしゃられたということであるが、まさしくわ たしは「お経に読まれている」のである。仏さまはわたしに問いかけていられる。とこと ん問いつめてこられる。み教えに聞くとは、自分を聞かせていただくことである。 女性ばかり働いている職場に勤めているご婦人が、その勤の中から、職場でのいろいろ のできごとが、自分のすがたを知らせてくれる大事なご縁であったことに気付かされたと き、自然にお念仏が出てくださったという話を聞いたことがある。生活を通してまさしく 自分を聞いていった人というべきであろう。 法語カレンダーの今月のことばに(昭和52年9月)「教に聞いて道を求めよ」とある。 「教えに」であって「教を」ではない。わたしたちは「教えを」と受けとりがちであるが 「教えを聞く」となると、自分に都合の良い耳ざわりの良い話は聞かれるけれど、耳に痛 いことばは聞きたくないのである。聞こえないのである。しかしよくよく聞かせていただ けば教えによってはじめてわが身の程も知らさせていただくのである。 教えに聞くとは、教えに照しだされた自分を聞いていくことなのである。 (昭和52年9月)2006年8月24日