念仏して地獄におちたりとも さらに後悔すべからず
真宗聖典627頁

今日、「地獄」「極楽」というと人びとは笑出す。はなから笑殺するのであります。昔、 無智文盲のやからを手馴づけるための歌い文句か、或はこけおどしであると決めつけます。 だが、そう決めつけるの確固たる信念あってのことでありましょうか。「あるものか」と鼻 くそのうらに、「あったら大変だな」という思いはないでしょうか。「あってもよろしい」と 引受ける自信があるでありましょうか。 たださえ「苦」を厭うわた-したちであります。それなのに、いよいよ苦悩の深まる現 代であります。交通地獄・受験地獄・公害地獄等々、現にわたくしどもの生活の中に、いか に多くこの「地獄」ということばが使われていることでしょう。.そしてこの状況は他人に 作られ押しつけられているとして腹をたてています。 地獄の獄卒がこう言うそうです。「他人の作した悪によって、自分が苦しみの報いを受ける のではありません。それはすべて自業自得の結果です」と。わたくしどもの果てしない欲 望との追いつ追われつの生活が、われ自身をいよいよ苦悩深いものにしているのでありま す。 地獄とは、「ことばの通じない世界」といわれますが、お互いに自分の主張ばかり叫ん で、話合いのできない今日の社会をこそ地獄というのでしょう。この状況の指し示す方向 を思うとき「地獄無し」と言い切れるでしょうか。 親鷺聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と言っておられます。不貞くされて開きなおっ てのおことばではありません。われと造り作してわれと堕ちていく・・・。さながら蟻が蟻 地獄に落ちていく姿に、わが身の姿を見ておられるのであります。 この迷いから迷いに到り、悪はさらに悪を重ねていく人間の生活の上にかけられてある 如来のご本願が「お念仏」と聞かせていただくことであります。み教えに遇い、念仏申す身 にしてはじめて罪深きわが身とも知られ、地獄より外に行くところなき自身と頷かれるの であります。 地獄はわれらの足下何千由旬という深いところにあると経典に説かれていますが、それ は、わが身を深くみつめるとき感得される境地であって、さかしげな分別ではとうてい知り 得ないところであります。 ここに仏のみ教えによってわが身の姿をあるがままに知らしめられ「地獄・一定」と受 けてみれば、地獄行きの身そのままに浄土え迎えられてあったと、「ただ念仏して弥陀にたす けられまいす」る生活が開けてくるのであります。 (昭和53年4月)

2006年8月25日