善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや
真宗聖典627頁

仏法は「出世間の道」といわれます。これは世間から逃避することではありません。 「人間」とは文字どおり人と人との間にある存在であります。今日、わたくしどもは世間 との関わり合いを外にしては在り得ません。そのためにあらゆるものを自分の都合に引き あてて利用して行こうとします。宗教すらも世間的な効用から考えます。それでありながらつねに感じられるものは「疎外感」であり、「断絶」の思いであります。 そこには、識らずしらずのうちに、自分を押通そうとするエゴと、それが思うに任せぬと 腹を立てるか、棄てばちになって拗ねるかであります。つまり世間に振りまわされて自己 を見失っています。我見に立って顛倒しているのであります。 そうした自分に気付かしめられて「われらは何のためにあるのか」という「問い」を持 つところに「道」を求め、自己自身を問わずに居られません。そこに「出世間の道」とい われる仏法の世界があるのであります。 今月掲げられた『歎異抄』第三章のおことばの後「しかるを世の人のつねにいわく。悪 人なお往生す。いかにいわんや、善人をや」と続いて「世の人」の立場をはっきり示して おられます。 仏道に立つことによってはじめて自分の根本的無知が知らしめられて、流転の身である ことも頷かれます。自分の浅はかな分別は一切間に合わないのでありましたと知らるるの であります。 かくして、自己自身の本当のすがたが知らるるとき、こうしたわたしのすべてを包んで、 真実の願いに目覚めよと、先立って願いをかけていてくださる如来のご本願がかたじけな く仰がれることであります。 (昭和53年5月)

2006年8月25日