念仏申すのみぞ 末徹りたる大慈悲心にて候
真宗聖典628頁

人はそれぞれに願いを持って生きています。
わたしはいま、不用意に「願い」という言葉を使いましたが、

わたしたちのいう「願い」 とは「欲望」のことでしょう。

それゆえに、絶えず一喜一憂して心から満足することがあり ません。いつも周囲に揺り動かされ、われの欲望にわれとふりまわされている生活であり ます。そこにはしぶしぶながらの妥協か、まわりえの不平か、投げやりしかありません。 それが、ほんとうに生きているといえるでしょうか。 することなすこと思うことすべては中途半端に終って「末徹った」ためしがありません。 「随処に主となる」という言葉がありますが置かれた場に安んじて心たいらに住すること はなかなかに出来得ないわたしであります。
ここに「念仏申すのみぞ・・・」といわれることは「念仏申さるる生活」ということであ りましょう。しかも「・・・のぞみ」と強く言ってあります。これ以外のところには満足し 落着くところはないということであります。
我見・我執に立って方向を失っているわたしにかけられている如来の本願を聞かせてい ただくとき、本願によって生かされている身と気づかしめられ、正しい方向が定まります。 もともと、方向定まらない者に「末徹る」ことのあろう道理はないのでした。 「もののあわれ」とて、むかしの人びとは深い心を持っていたことでありましたが、それ は仏法によって開かれた「同感」の世界であったにちがいありません。わが身のいのちの 大切さを知る者のみが、他のもののいのちの大切さを知ります。そしてそれを末徹してやれ ぬ哀みをも抱くのであります。そこには、ただ、念仏申すほかはないのであります。 仏のみ教えは、わたしにわたし自身の限界(分限)を知らしめてくださいます。わが身 の分限を知らしめていただいたいま、そこに悲愍したもう如来の本願の念仏のみが、まこ とに末徹りたるものであり、わたしのいのちの大切さを満足せしめてくださるものであっ たと頂戴することであります。 (昭和53年6月)

2006年8月26日