一切の有情はみなもて 世々生々の父母兄弟なり
真宗聖典628頁
今日はおよそ連帯感の欠けた時代であるといわれます。職場を共にしながらも、心から 打ちとけた交わりを持っている人はどれほどあるでしょうか。わずかに「共同の利益」で 結ばれているに過ぎないのではないでしょうか。このことを外しては、むしろ交遊を煩わ しとして、いろいろの組織に組みこまれるのを嫌がり、共同して、ことにあたるのを避けた がる。てんでばらばらの暮しであります。都会ぐらしの人ほど、この傾向が強いように見受 けられますが、今日、わたしたちは、それほどエゴイズムに陥ちこんでいるわけです。 では「一人居て賑やか」の境地にあるかといえばそうでもなさそうです。
「レジャーとい い、バカンスというけれど、それは孤独に堪え得ない者の悲鳴なのだ」と、さるお方が言 われたことを思いだします。
本来、みな仲良くありたいとの願いを持ちながら、左様にあり得ないということは、われ 自身の心の狭さのいたすところでありましょう。 いまここに「一切の有情」といわれるこのことばは、仏法によって視野の開かれたところ がら出てくることばでありましょう。「念仏申す」身にしてはじめて生きとし生けるものみ なにいとしさを抱き、それらのもののいのちの大切さも思われるでありましょう。 つねに偏見と劣等感のみに立っているわたしらは、何の「能」もなく自ら独立する力もな いのであります。「この無能のわれらをして、真のわれたらしむる能力の根本本体が即ち如来 であります」と清沢満之先生は教えたもうのでありますが、まさしくわたしどもは如来の 本願に立ち帰るときはじめて「わが身の尊厳」とともに一切の人びととの深い縁(えにし) のほどもおもわれるのであります。(昭和53年7月)2006年8月26日