つくべき縁あればともない 離るべき縁あればはなれる
真宗聖典628頁

「さよならだけが人生だ」とうたつた詩人がありますが、まことに人生は「別れ」の連続 であります。わたしも、これまでにずいぶん多くの人と別れてきました。それは反面多くの 人との出会いがあったことで、でもあるけれど別れても、なお今に繋るといえる深い交際(お つきあい)の持てる人となると実に数すくないものです。 そしてそれは、今、しょっちゅう会えている人との間柄についてもいえることでしょう。 心開いて打ちとけ合える友とは、仲々に得難いものであります。 「愛別離苦」の悲みは、誰しも一度ならず体験しているのに「喉もど過ぎては熱さ忘るる」 の類いでいつしか忘れられていきます。お互いに、はかない縁というほかはありません。そ れは相い会えたご縁を大事にしていなかったということでありましょう。 「ご縁を温める」。かつて或るお寺の掲示板で見受けた言葉ですが、今に心にしみている言 葉です。「会うは別れの始め」と昔からいわれていますが、わたしたちはこの「別れの悲し み」を通して何を教わるのでしょうか。金子大栄先生は「人と生まれし悲しみを知らない 者は、人と生まれし喜びを知らない」とおっしゃっていられますが、お互いにはかない縁 なればこそ、会い得た縁の深さが思われることであります。 「偶然」とは瓢箪から駒といった式のものではなく、「思えばよくよくのことであった」 と、しかと受けとめられたことであります。さらに思えば「別れ」とは、向うさまが過ぎ 去っていくのでなく、わたしの方が流れ過ぎ離れて行くことなのです。わたしは流転して 止まるところを知らないものでありますから・・・。そうしたなかにおいて、このたびの生 涯を「空しからざるものであった」とどこで言えるのでしょうか。 「つくも離るるも縁による」とは、ぶらり瓢箪式の投げやりなことばではなくして「偶然 らしめらるる」縁の深さを受け止めたところからくる言葉であります。 愛別離苦の人の世のきびしさを通して「倶会一処」の世界がいよいよ願われることであ ります。 (昭和53年8月)

2006年8月26日