念仏者は無碍の一道なり
真宗聖典629頁

「無碍の一道」とは真の自由を生きることであります。これは、我がままにということでは ありません。「我がまま」とは文字通り自分の都合だけを考えているので、都合のよい間は ご気嫌であるが、ひとたび裏目に出ると忽ち腹が立ち、愚痴が出て、すこぶる不自由であり ます。
真の自由とは、どのようなときにもどのようなことでも素直に受け容れて、むしろそこ から何かを学んでいくのであります。

「楽みは追えば追うほど逃げていき、苦みは逃げれば逃げるほど追っかけてくる」という 言葉がありますが、実によくわたしどもの暮しを言いあてています。

もともと人間の境界は苦・楽相半ばする世界といわれますが、生活の実感としては「苦 みのみ多き・・・」であります。これはわが身に頂戴した果報をあたりまえとし、受けとめ ていくべき業を、辛く苦しいときの場合には、これを外から押しつけられたものとする僑慢 のこころが根源にあるからであります。苦をも受けねばならぬのが人間の境界なのに不都 合と決める。「不都合・・・」。まさしく自分にとって都合が悪いと悲鳴をあげているのです。 誰しも順境は好ましく逆境は嫌なものですが逆境に遇うではじめて目覚めるというものも あります。 順境にあるときは、肝心のわがこころすら取り失ってうかうかと過しますが、逆境に落ち て、はじめて自分のいとしさ、大切さが思われるのであります。 順・逆ともに受けていく。そこに真の自由を生きる道があります。

病いには病いのねうち
身を横えて知る
空の高さ

と、口ずさんだ人がいますが、「病い」を受けとり「病い」に順うて、そこにいつもは気づ かなかった妙味を知り得た人といえましょう。 「不都合」から逃げようとする「不自由さ」をやめて素直に受けとめてみれば「何物にも さまたげられない」世界が開かれています。

為衆開蔵 広施功徳宝

衆のために法蔵をひらきて 広く功徳の宝を施(せ)せん(真宗聖典25頁)
すでにして、法蔵は開かれているのであります。わたしどもを大きく包みがっちりと支え ていてくださるもの。「十方をことごとく盡して碍(さまたげ)なし」。まことに「念仏者 は無碍の一道」と、真の自由を生きさせていただくのであります。 (昭和53年9月)

2006年8月26日